【お酒】2240.天野酒 純米吟醸 300ml [27.大阪府の酒:2+]
製造者 西條合資会社
大阪府河内長野市長野町一二-一八
日本酒
300ml
原材料名/米(国産)・米こうじ(国産米)
アルコール分16度以上17度未満
精米歩合/60%
(以上、ラベルより転記)
大阪府河内長野市。
河内長野駅(南海高野線/近鉄長野線)があるあたりが、その中心地でしょうか?
河内長野駅のすぐそばには、高野街道がありました。
古くからあるであろう街並みに沿って歩いて行くと、
そこにあるのは、西條合資会社さんの蔵。
看板には、“天野酒”の文字が。
今日いただくこの天野酒も、ここで入手したものでした。
今日いただくのは、
“天野酒(あまのさけ)”の純米吟醸。
アルファベット表記にあるとおり、濁りません。
え?
なんだって?
「天野酒って、どんなお酒なのか?」ってか?
呵呵!
かんらからから!
待ってましたよ!、その質問。
ざまあみろってんだ!
さあさあ!
天野酒に関しての、
長い長い講釈のはじまりはじまり~!
1.天野酒
(1)中世における天野酒
“天野酒”とは、いったいどのようなお酒だったのか。
それを解説する前提として、以下の文献に記載をお読みいただきたく存じます。
「 室町中期から戦国期にかけて、都の貴紳あるいは武将の間で高く評価された「天野酒」は、河内、和泉の国境に近い河内長野市天野町の山中の巨刹、天台宗天野山金剛寺で醸造された酒のことである。鎌倉初期の天福二年(一二三四)、当寺の住僧起請文から、「御酒者二瓶子」、「濁酒者四瓶子」、「清酒者一瓶子」(『金剛寺文書』拾遺一)などの文字が見えることから、このころすでに酒造りが行なわれていたものと考えられる。しかし、これは収益を目当てにした酒造りというより、むしろ自家用酒の可能性が高い。
「天野酒」として文献にあらわれるのは、『看聞御記』永享四年(一四三二)四月二十九日の条に「河内天野酒」とあるのが初見であろう。また、『経覚私要鈔』の嘉吉四年(一四四四)正月の条にも「天野酒」の名が見える。それ以降の文献に、「天野之古味尤モ妙味」とか、「天野比類ナシ」とか、「美酒言語ニ絶ス」などと見えるが、これらはいずれも中世酒造界における第一等酒「天野酒」への讃辞にほかならない。」(※1)
即ち、この記載から、
天野酒は中世(鎌倉時代-安土桃山時代)において“天野山金剛寺”で製造されていたお酒であること。
天野酒はおいしいと評判であったこと。
がわかります。
(2)現代における天野酒
今は、天野山金剛寺では、酒造りをしていません。
それでも、天野酒を名乗るお酒は存在しています。
これは、天野山金剛寺がある場所と同じく大阪府河内長野市に蔵を置く西條合資会社さんが、昭和中期に天野酒を自社の手印として使用することの許諾を天野山金剛寺から得たが故とのこと。
「 社名は西條合資会社。江戸中期の享保3(1718)年の創業で、三木正宗という銘柄で売り出し、大正、昭和は波之鶴の名で販売した。大きな転機がやってきたのが先々代の1971年(昭和46年:ブログ筆者追記)。僧房酒の発祥の地、天野山金剛寺の協力により、古格の天野酒を復活したのだ。」(※2)
2.僧房酒
(1)僧房酒の意味
上記(※2)の文献に、“僧房酒”という言葉が登場しました。
そして天野酒は、その僧房酒の中の一つであることが(※2)からわかります。
それでは、僧房酒とはいったいどのようなお酒でしょうか?
それは、端的に言えば、“中世の頃に、大きなお寺が各地でそれぞれ造っていたお酒の総称”です。
これは私の意見ですが、天野酒という言葉は中世の頃から存在していたでしょうけれど、僧房酒という総称は、おそらく明治以降の研究の成果として創造された言葉ではないでしょうか。
(2)なぜお寺で酒造り?
ではなぜ、中世の頃にお寺がお酒を造っていたのでしょうか?
それについては、下記の記載からわかります。
「 中世の寺院は、荘園領主である。多くの大寺院では、所有する荘園から上納される年貢米を用い、僧侶が酒を造った。この酒は僧房酒と総称し、用途は販売用を中心に、自飲用や行事用など多様であった。」(※3)
以下は、私の意見です。
中世における大きな寺院は、“荘園=年貢米という収入をもたらす広大な領地”を保有しておりました。
そこから上納される年貢米は、お酒の原料となります。
そして荘園領主たる大寺院には、僧侶や役夫など多くの人材が集積していて、それが労働力たり得ました。
また大寺院は学問の場所でもあったことから、酒造りに関する(経験的)知見を集積し、実践して技術化することも可能であったことでしょう。
さらに僧房酒の製造は、上納される年貢米に付加価値をつけ、より多くの貨幣を獲得するための換金手段であったのかもしれません。
僧房酒の例は、天野山金剛寺における“天野酒”のみならず、興福寺などによる“南都諸白”や、大和国菩提山正暦寺における“菩提泉(ぼだいせん)”など、各地に存在していたのでした。
3.中世における天野酒の特徴
僧房酒の一事例であった天野酒。
それが美酒ともてはやされたことは(※1)にて紹介いたしました。
では、その天野酒にはどのような特徴があったのでしょうか?
それは、今日のお酒で広く用いられている“段掛け”がなされており、かつ“酒母(酛)”を用意する必要に気づいたことにあるのです。
“酒母(酛)”については、こちらをご参照下さい。
日本のお酒では、「酵母の増殖やもろみの温度管理をやりやすくするための知恵」(※4)として、麹と酛(酵母の培養液)、そして掛米とを4日間かけて3回に分けて仕込んだのちに発酵の過程に移行するという“三段仕込”が広く採用されております。
一方で天野酒は、三段までにはたどりつかなかったものの、二段仕込によって酒母、麹、掛米(蒸米)を仕込んでいたそうです。
「天野酒の注目すべき点は、それまでの一段仕込みから脱却して二段仕込みの方法を編み出したことで、現在の日本酒にかなり近づいた酒だったようだ。」(※5)
「 文献上、酒母が最初に登場するのは、天野山金剛寺の「天野酒」の仕込み配合を記した『御酒之日記ごしゅのにっき』である。それによると、もろみを仕込む際にあらかじめ「元」(酒母のこと)を造り、さらに「初度」と「第二度」と二回に分けて仕込む二段仕込みになっている。元の造り方は、蒸した白米と麴、水を元瓶もとかめに入れ、筵むしろを巻いて保温し発酵させる。次に、これを毎日攪拌して温度を下げながら、酸味と渋味が出てきたら仕込みに使うというもので、まさに酵母の大量集積、つまり酒母造りの方法といえる。」(※6)
ここも、私の意見です。
段掛けや酛(酒母)造りという技術は、理屈ではなくて経験であみ出して完成させ、かつそれが現代における科学的知見に照らしても合理性があるのです。
このような方法による技術の完成は、けっして天野酒の例だけではなく、火入れ(低温殺菌法)や宮水の発見なども同じでしょう。
すなわち、明治の世に入って科学的知見による理論化が可能になるまでは、酒造りにおいてはすべての技術がそういう方法で完成されてきているわけですよね。
お酒って、人が生きていくためには必ずしも必要不可欠ではないですよね。
それなのに、その製造には古より多くの人々がものすごい情熱をかけて試行錯誤をくりかえしながら、今日でも正当性を理論化できるほどの技術を集積していったわけですよ。
僧房酒とは無関係ですけれど、人が生きて行くための食糧として必要不可欠な米で酒を造ることを禁止していた江戸時代の八丈島では、流人によって芋焼酎の製法が伝わり、今日では八丈島のみならず、かつてその属島であった青ヶ島(青酎)の代表的な酒として、島の内外で珍重されているという例もございました。
このように、たとえ製造が禁止されていても、他の手段による禁止の回避を貪欲に追求させて実現させるほどの情熱を、酒は人に抱かせたのです。
なにがそこまでさせたのか?
私がその結論を語るには、お酒に関する勉強も、お酒を飲んだ量も経験も、到底足りないみたいです。
4.天野酒の評判
天野酒が美酒であったことは(※1)で紹介いたしました。
その程度たるや、他所産を凌ぐほどの格別の味わいであったようです。
そのことを詳しく紹介する文献の記載を引用して、この解説を終わりにしたいと思います。
「 『看聞御記かんもんぎょき』や『御酒之日記ごしゅのにっき』によると、室町時代中期から戦国時代にかけて「天野酒比類無シ」とか「ソノ美酒言語ニ絶ス」などと称賛され、足利将軍や豊臣秀吉が愛飲したことでも知られる。」(※5)
「 羽柴秀長に贈つた時のものには、陣中の見舞品にこの酒を以てしたことが見えてゐる。尚、豊臣秀吉の関東征伐に進発の際、又その凱旋の時に、いづれも祝儀として、寺から酒を贈つてゐる。かくの如く特くに金剛寺から諸武将に酒を贈物とした許りでなく、秀吉の如きは、態使を派して同寺の酒を需め、その送付に「此樽能々被レ誥、口ニ二封を(ママ)付、樽之不レ明様被レ入レ念」と注意を与えてゐる。これは同寺の酒の品質が優秀であつた為であらう。寺院に於て特くに優秀なる酒を醸造した事は、興味ある事実でなければならない。」(※7)
〔参考文献〕
(※1)坂口謹一郎監修・加藤辨三郎編『日本の酒の歴史』p.173(加藤百一執筆『日本の酒造りの歩み』p.41-315中 1977.8 研成社)
(※2)浅野詠子『奥河内のものづくり 奥河内のつくり手を訪ねて : 人形作家 秋山信子さん(人間国宝) 爪楊枝製作 稲葉修さん(つまようじ資料室) 酒造り 西條陽三さん(天野酒 蔵主) (特集 奥河内の今昔物語)』p.68(大阪春秋 41巻2号 p.68-71中 2013.夏 新風書房)
(※3)鈴木芳行『日本酒の近現代史 酒造地の誕生』p.23(2015.5 吉川弘文館)
(※4)秋山裕一『日本酒』p.70(1994.4 岩波新書)
(※5)小泉武夫監修『日本酒百味百題』p.15(2000.4 柴田書店)
(※6)(※5)p.26
(※7)編輯子『贈物に現れたる方土の産物(その一)』p.72-73(日本歴史地理学会編『歴史地理』61巻1号 p.72-73 1933.01 吉川弘文館)【(※7)の引用では、ブログ筆者の判断で漢字の書体を現代のものに適宜変更しました。】
あー!
気が済んだ!
気が済んだ!
それでは、話をお酒に戻しましょう。
今日いただくこの天野酒は、純米吟醸。
品質表示を見ると、純米なのに16度台。
アル添がなく、かつ加水が少ないのでしょう。
ということは、濃醇でどっしりとした味わいなのでしょうか?
その推測、あながちはずれてはいないかも。
それではいただきましょう。
純米吟醸ですから、冷蔵庫で冷やしたものをいただきます。
お酒の色は、無色透明でした。
香りはなし。
含んでも、フレッシュさはそれほどでもない。
ただ、アルコール香を少しはっきりと感じます。
うまみはやや濃いめ。
米のうまみに厚みが少しあり、舌の上にふわりと乗っかります。
苦みがあって、少し強めで鋭いですね。
熟成感はなく、酒臭さもなし。
キレはよく、スッと引きます。
酸味はややひかえめ。
すっぱさはかなり弱めですが、それなりに鋭さを感じます。
ちょいスーですが、ピリはなし。
甘みはひかえめ。
その存在は一応わかりますけれど、かなり弱めで幅もなし。
やや濃醇でちょい苦ちょいスースッキリ旨辛口のおいしいお酒でした。
濃醇かと予想したものの、淡くはなかったもののどっしりとした感じではありませんでした。
それにキレがよく、後味スッキリでした。
アルコール香とちょいスーとを感じたことから、アルコール度数がやや高めであることはわかりました。
ちょい苦で荒々しさもありましたが、キレが良いので気にはなりませんでした。
しかも予想に反して辛口で、キリッと引き締まっておりました。
おいしいね。
現代の天野酒は古式に則ったものではなく、最新の酒造技術が導入されているものだとわかりました。
それ故に、あっちゅう間でございましたとさ。
その天野酒純米吟醸と合わせた今日のエサはこちら。
みょうがとトマト。
がり。
みょうがとトマトとのがり和え。
しき(;松本市)さんでいただいたものを再現してみようとの魂胆でした。
当たらずとも遠からず。
みりん、酒、酢、塩で味をつけましたが、その配合については要検討でしょう。
山形産のにら、“達者de菜”。
にらのなかではこれが白眉!、他県産とはみずみずしさがぜんぜんちがう!
スペイン産の安い豚肉と合わせて、
肉入りにら玉。
なぜか肉のほうが目立ってしまいました。
味はもちろんおいしい!
スペイン産の豚肉は、アメリカ産よりもやわらかいしね。
ごちそうさまでした。
天野酒も僧房酒も知りせんでした(汗)。天野酒は見かけたら飲みたいと思います。僧房酒はベルギービールのように寺院で造られていたのですね。世界中に飲み助はいるものですね。
by newton (2024-08-25 15:14)
newtonさん、私も言葉としては知っていた程度で、その意義については、このお酒をいただくまでまったく理解してはおりませんでした。
大事なことはみな、いつもお酒が教えてくれるということを再認識いたしました。
by skekhtehuacso (2024-08-25 18:50)